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2021.5.4

陶磁器生地工房 アトリエ ビスク |太田祐子さん

波佐見ポートレイト|陶磁器生地工房 アトリエビスク|太田祐子さん

ロクロだからこそ生まれる、手に馴染む表現。

2019年に独立し、「陶磁器生地工房 アトリエ ビスク」を構えた太田祐子さん。
屋号の「ビスク」は、フランス語で「素焼きの磁器」という意味だそう。

「私の仕事は、磁器の生地製造業。昔ながらの伝統的な『手ロクロ』という方法で、窯元さんや作家さんから請け負った生地をつくって納めています。
また、作家活動も行い、自分の作品も販売。
現在は、生地屋としての仕事が全体の6、7割を占めている感じですね。」

波佐見ポートレイト|陶磁器生地工房 アトリエビスク|太田祐子さん

一つ一つ手作業でロクロをひき、寸分違わぬように同じ形の器を注文の数だけつくっていく。
正確さとスピードを求められる大変な作業です。

「江戸時代などの機械がない頃は、そのようにロクロで手作りしていました。
近代化が進むにつれ、大量生産が容易な石膏型を使用する生地屋さんが主流に。
もう波佐見では、手ロクロの生地屋は絶滅危惧種みたいな存在です(笑)。

でも、手ロクロでないと出せない味わいのようなものがあって、そこをどうしても表現してほしいという方がいるので、やめられないというか。
私自身も楽しいですしね。」

そんな稀有な存在となった太田さんですが、生地屋を生業とするまでの道のりは、決して平坦ではありませんでした。

波佐見ポートレイト|陶磁器生地工房 アトリエビスク|太田祐子さん

太田さんの出身は京都。手に職をつけたいとの思いから、関西の美術大学に進学。

「子どもの頃から、ものづくりが好きでしたね。
父もDIYが得意だったので、その影響もあったのかもしれません。
美大では、日本画からインテリアデザインまで一通り体験してから、進むコースを選べるシステムで。
その時に陶芸と出会い、はじめは面白そうという単純な動機から始めたのが、今に続いている感じです。

陶芸といっても、産地ではなかったので、制作するのはオブジェなどのアート作品。
卒業して、いきなりポーンと世の中に放り出されても、アーティストとして食べていくなんて難しいじゃないですか。
で、路頭に迷って。
技術もないし、設備もないし、お金もない。どうしたら良いのかと、途方に暮れました。
いろんな職を転々としながら過ごした数年間は、暗黒時代でしたね(笑)。

ある日、これではいけない!と思ったんです。
せっかく大学まで行かせてもらったのに、焼き物のことがあまりにも身についていないから。
当時、佐賀県立有田窯業大学校という、職人を育てる学校が有田にあったんです。
九州の有田焼といえば、技術的にも見た目の美しさも日本で最高峰の焼き物なので、とにかくそこで技術を修得しようと。」

2001年、一念発起して九州に移住を決めました。

波佐見ポートレイト|陶磁器生地工房 アトリエビスク|太田祐子さん

「窯業大学には、絵付けとロクロ、それぞれ1年間のコースがあって。
まず入った絵付けコースでは、指定された課題をひたすら描くんです。
焼き上がった時に課題と同じものができているかが評価基準。
次に行ったロクロのコースは、1年かけて蓋つきの器を5個、完成させます。
その究極の5個に辿り着くまでに、何百個、何千個ってロクロをひいて。
ここで、ものづくりの面白さを再確認しました。特に、ロクロの楽しさに気付きましたね。」

卒業後は、有田焼のロクロ体験施設にインストラクターとして3年間勤務します。

「空き時間には、余った土などを使って自分の作品をつくらせてもらえたんです。
経験を積んだり人脈を得たりと、独り立ちできるように後押しをしてくれるような仕事場で。
窯業大学を卒業した人が2〜3年交代で入ってくる感じでした。」

そこで、これから先の運命を決める人物との出会いが。

「私の後にインストラクターとして入ってきた女性と意気投合して、一緒に作品をつくるようになりました。
その人が、後々『松原工房』というユニットを組んで作家活動をしていく相方になります。
私がロクロ、彼女が絵付けを担当し、ひたむきに打ち込みましたね。」

偶然にも、有田で初めて住んだアパートが2人とも「松原荘」だったとか。
出発点が同じであったこと、そして「初心忘るべからず」の想いを込め、屋号を「松原工房」とし、2005年から活動をスタート。
そして、2008年に波佐見へ。

波佐見ポートレイト|陶磁器生地工房 アトリエビスク|太田祐子さん

波佐見焼の窯元「康創窯(こうそうがま)」さんで修行しながら、仕事を終えると自分たちの作品づくり。
当時は寝る暇もないほど、焼き物中心の生活だったといいます。

「康創窯に勤める際、ゆくゆくは独立したいので、窯のさまざまな技術を学ばせてほしいと、社長にお願いしていたんです。
主な仕事は絵付けでしたが、現場の流れなど、いろいろ教えていただいた2年間で、松原工房として一本立ちするための基礎固めができました。」

金屋郷(かなやごう)に拠点を移し、「松原工房」として本格始動。
伝統技法を使いながらも、現代の生活に合うポップで可愛い日用食器は大人気に。
二人三脚で走り続けた10年間。全力でやり切ったと振り返ります。

「よく頑張ったし、次はお互いに好きなことをやろうと、2019年3月末で解散しました。
相方だった彼女は今、北海道にいます。
私は、一人になって自分にできることは何かと考えた時に、自然と生地屋に行き着きました。
ロクロの技術もかなり身についたし、やっていけるだろうと。
作家活動だけをしていこうとは考えなかったですね。」