editRie Hayashi

2020.1.12

馬場勝文陶工房 | 馬場勝文さん

陶芸家・馬場勝文が辿ってきた、5つのターニングポイントとは。

福岡県久留米市に工房を構える、陶芸家の馬場勝文さん。
山々に囲まれ、目の前にはホタルも舞う高良川が水面をきらめかせる、自然豊かな環境のもと、奥様の美和子さんと、犬と、5匹の猫たちと一緒に暮らしながら、作陶されています。

馬場さんの器はシンプルで、どんな食卓にもスッと馴染んでくれて。
それなのに印象的で、存在感があり、何気なく置いているだけでとても絵になる佇まい。
たとえ凝った料理じゃなくても引き立てて、おおらかに優しく包み込んでくれる安心感と使い勝手の良さから、ついつい手に取ってしまいます。
今や馬場勝文陶工房の作品は、2年待ちというほどの高い人気。

この魅力的な器を生み出すに至った、馬場さんのこれまでの道程はどのようなものだったのでしょうか。
そこには、5つのターニングポイントがありました。

古信楽との出会い。

1970年、久留米市に生まれた馬場さん。
両親が共働きだったため、ずっと一緒に生活をしていたのは祖母でした。
その祖母の面倒をみたいからと、子どもの頃は介護福祉士になりたかったそうです。
そんな心優しい少年の時分から、きっと絵を描くことや粘土遊びが好きだったに違いないと想像していたのですが、意外にも「全然」との答え。
中学・高校の部活は卓球で、美術が得意だったという訳でもありません。
「特に可もなく不可もなく。動物を描けって言われたら、子どもの絵みたいなの描くし。」

陶芸に興味を持つようになったのは、中学生の時。
美術館で見た、古信楽や古備前のやきものに惹きつけられました。
「絵だったら、絵の具を塗れば完成するし、彫刻は彫れば良い。実際にはできなくても、やり方は想像がつく。
でも、あの灰被りだけは、作り方が全然わからなくて。すごいなぁと。
ビードロがかかって、こっちは焦げていて、こっちはオレンジ色になっていて……。
この、ふわ〜っと変わるグラデーションを人の手で作為的につけているとすれば、どうやって?とか考えて。
結局それは違ったんだけどね。窯の中でそうなるんだけど。
とにかく、それが不思議で不思議で。」

古信楽に魅せられたこの出会いこそ、陶芸家としての人生を歩む、一つ目の大きな転機と言えるでしょう。
そして、古信楽への想いは現在まで持ち続けることになります。

就職活動の結果。

やきものに対する興味は尽きることがなく、福岡市内の大学に入ってからは、全国の窯元や歴史資料館などを見てまわります。
「現代陶芸よりも、六古窯とか古いものが好きだったから、そういうところをメインにね。」

*「六古窯」とは、日本古来の陶磁器窯のうち、中世から現在まで生産が続く代表的な6つの窯(越前・瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前)の総称。

自分で実際に作ってみたのも、大学時代。
「よくある町の陶芸教室に通って。
すでに調合された釉薬が何種類か用意してあって、手びねりで作って、好きな釉薬をかけて良いですよっていう。
色々と見てきて目だけは肥えていたから、ギャップが凄かったけど。」

その当時は、陶芸家になろうなんて思ってもいなかったとか。
「あまりにも見てきたものがすごくて、自分が陶芸で食べていけるなんて、とても思わないから。それに、スタートの時点で全然違うしね。
人間国宝のような人たちは、中学生くらいの歳から弟子入りしてやっていたりするし。」

だから大学も、就職率が一番良いからという理由で法学部を専攻。
「ま、サラリーマンになろうと思って。
働きながら趣味で陶芸をやって、自分の家の片隅にちょっとした窯小屋なんか建てて、自分で使うお茶碗を作って…みたいなのがプランだったんだけれども。」

ところが、就職活動に2度目で挫折。
「スーツを着込んで就職説明会に行って、うわっちゃ〜と思って。
似たような格好の人がいっぱいいて、御社がどうとか、心にもないことを色々と言って……。
もうモゾモゾしちゃって。で、2回目で、もうやれんと。」
そこで就職活動をスパッと諦め、陶芸の道に進もうと決意します。

師との出会い。

まずはアルバイトをして、お金を貯めることに。
「当時はバブル期だったから、バイトもお金が良くてさ。
天神コアのドアボーイと、博多大丸で酒屋さんと、空いた時間にユニットバスの組み立てと。
毎月30〜40万になってたもん。社員さんより多く貰っていたくらい。」

そのアルバイト先で、第二のターニングポイントとなる出会いが。
働いていたデパートの催事場では作陶展なども行われており、興味のある作家さんが来た時は見に行っていたそうです。
「その内の一つが、後にお世話になる、信楽の福田英明さんという人だったんだよね。」
ついに、師と仰ぐ人と巡り合いました。

信楽で草土窯を営む福田さんに「一度遊びにおいで」と誘われた馬場さんは、滋賀県甲賀市信楽町へ。
そこで福田さんから言われます。
「陶芸の道に進むのは良い。けれども、お前はスタートも遅いのだし、やるのであれば、結婚やら何やら他のものは全部置いて、やらないといけないよ」と。
覚悟を決めた馬場さん。

渡仏。

福田さんからの「他にやることがあるんだったら、陶芸をスタートする前にやっておきなさい」とのアドバイスに従い、ヨーロッパの陶磁器を見ておこうと、大学卒業後はフランスに留学します。
「留学した方がビザも更新しなくて良いし、学生であれば交通機関なども半額とかになるし、ホテルよりも学生寮に入った方が月3万ぐらいで済むし。
学費が年間10万くらいだったかなぁ。めちゃくちゃ安いでしょ?だから、貯めていたお金で行けると思って。
調べたら、フランスのDijon(ディジョン)という田舎の方にあるブルゴーニュ大学が安くて、僕のようなフランス語もできない人間も受け入れてくれて、語学コースみたいなのもあるとわかってね。
じゃあ、そこに入学して、休みのたびにヨーロッパの窯を見て回ろうと。」

ちなみに、渡仏時にフランス語を話せたのかというと。
「全然。10まで数えられたぐらい。若気の至りというか。
だから、Sortie(出口)が読めなくて、空港を出るのに3時間ぐらいかかったもん。英語表記もないし、質問してもフランス語でしか答えてくれないしね。」

フランス以外にも、ドイツやオランダなど、有名どころから田舎の方まで、さまざまな窯を巡った馬場さん。
現在のようにスマホで何でも簡単に調べられる時代とは違うため、大変だったのではないかと心配したのですが……。
「今だったらとてもできないけど、若かった当時はね。どうにかなるだろうって。そもそも有名な窯の場所は知っていたから。
それに、向こうで知り合った人に『俺は陶芸がやりたいんだ』みたいなことを言っていると、『ここは知っているか?』とか色々と教えてくれて。今度はそこに行ってみようとかって。」

留学時代に得たもの。

「食器の使い方が合理的に考えられていて、そういうシステマティックなところは面白いと思ったよ。
でもやっぱり、改めて日本の良さを感じたなぁ。
向こうでは、“器を育てる”というような感覚はゼロだからね。
ちょっとずつ変わっていく美しさ、みたいなものは理解されない。基本的には磁器だしね。
田舎の方には陶器もあったりするんだけど。
La Borne(ラ・ボルヌ)っていう、陶芸家が集まった小さな村があって、みんなで薪窯をやっていたり。
それから、海辺の方に行くと、お皿に魚の絵が描いてあったりね。
沖縄もそうだし、こういう感じは似てるなと思って。
ヨーロッパにも、やっぱり民藝みたいなものがあるんだね。」

実はもう一つ、フランスで大事な出会いを果たしています。
それは、後に生涯の伴侶となる、美和子さん。
愛知県豊田市出身で、仏文を学び、ブルゴーニュ大学へ語学留学に来ていました。
ご本人は多くを語られませんが、はたから見ている限り、馬場さんにとって美和子さんの支えはとても大きなものなんだろうなと感じます。

そして、フランスで2年が経った頃、とうとう銀行の残高がマイナスに。
「で、帰ってきちゃった。尻尾を巻いて。」

日本に戻り、とにかく給料の良いアルバイトを探して、山梨で期間工を半年間。
その間に、信楽窯業技術試験場の研修生を募集する試験を受け、合格率30倍ほどの難関の中、一発で合格します。

*「信楽窯業技術試験場」は、滋賀県産業の発展のために設立された、県立の試験研究機関「滋賀県工業技術総合センター」にある。県内の窯業の後継者を養成する目的で1年間の研修が行われており、現在は大物ロクロ成形科、小物ロクロ成形科、素地釉薬科、デザイン科が設置されている。

いよいよ、信楽での修行がはじまります。

〈つづく〉